2006年07月22日

書くこと・歩むこと

また、長く休んでしまいました。
かくも長き不在に対して、何らかの「釈明のようなもの」が必要とされるでしょう。
それだけが出来ずにいました。
枕詞さえあれば、本文はすんなりと出てくると思っていました。

何かを書き終え、自分の思うことをうまく表現できた。
心を覆っていた茫洋としたものを言葉にあらわすことができた。
その瞬間はなんともいえず晴れやかなものです。

人間は言語を書くことはもとより、読むことでさえストレスを感じるといいます。
そんなつらい所業をしなくとも
口が達者で、何でも思うとおりに言えるなら
人は書くことなど必要なくなるのかもしれません。

自分や友人・配偶者・仕事、といった生活全般に何の不満もないならば
経済活動に精を出し、偉人の顔が印刷された紙切れを集め
自身を容れるちっぽけな囲いを、狭い地上に作ったほうがいい。
それが高度資本主義社会に生きる者の健全な生活です。

そういうことができないから、常に不満を抱え、
自身の欠落―それも決定的ともいえる欠け具合―
に気づいているからこそ書くことをやめられない。
それは他者に対し何かを訴えたいという欲求というより、
自身の欠落している部分を埋める為の行ないなのかもしれません。
「ぼんやりとした不安」は常に我が心に巣くい、
霧散する兆しはありません。

ここ一月ほど、「歩く」ということに偏執的なまでにこだわっています。
街へ海へ、里山へ谷戸へ。
歩いた距離はどの位になるでしょうか。
自分でもよくわかりませんが、歩みながら”精神世界のなにものかの成就を願う”お遍路さんのように、無意識の内に願をかけていたのかもしれません。

なるべく心を空虚に保ち、目にとまった葉の揺れ具合、立ちのぼる匂い、
そんな時に湧き上がってくる感情や巡ってくる記憶に素直に向き合い、
彷徨い漂うように歩を進める。

自転車に乗ったり、ジョギングをしたり、筋トレをしたり、運動するということは憂愁を霧散させるひとつの有効な手段です。
ランナーズハイ、スイマーズ・ハイなどと呼ばれるように
一定時間有酸素運動を続けていると、ある時ふと訪れる現実遊離の瞬間、
肉体的苦痛や精神的混迷から開放される瞬間が訪れます。
一種のカタルシス・精神浄化作用です。
歩くことはその最もピュアな形態です。
歩を進めることには何の技術もいらず、運動効率を考えたり、フォームを気にしたりする必要はありません。
より純粋に行為に没頭することができます。

想うことは日々、非常に多いものでした。
ここ近年にないほどの密度でもって日々想いつづけました。
そしてそれが蓄積し、心の中で飽和状態になり、
少し零れ落ち、文字になりました。
また・・・もう少し続けていきたいとおもいます。
posted by renn at 20:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは。色々と素敵な時間を過ごされていたようですね。
少し零れ落ち、文字に・・・。

ゆっくりと少しずつでいいので・・・
愉しみながら読ませていただきます。

お身体にお気をつけくださいね。
Posted by みー at 2006年07月23日 00:32
みーさん
いつもありがとうございます。
「書くことはやはり楽しい」
そう思うことができました。
これからもまったりと、続けて行きます。
Posted by renn at 2006年07月23日 21:48
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