2006年07月23日

翠葉

台湾小皿料理店を中区に展開している翠葉グループ。
B級グルメにとってそれは♪〜気がつけばそこにあるもの〜♪
語らずともうなづき合える、いつもそばにいる古女房的安心感・・?があります。

以下、厨房⇒野毛動物園通り店舗
   本店⇒宮元町店舗で語って行きます。

かつて野毛に勤めていた頃、
厨房には何度も足を運びました。

ある日訪れた折たまたま週に一度の「餃子半額・105円の日」にあたってしまい、
狭い店内は鈴なりの人でした。
一人しかいない調理人はかなりテンパっていたようで、
餃子はヘナヘナ、チャーハンは脂まみれ。
ラーメンのスープは、明らかに何か重要な調理過程が省かれていると確信できるほどの
はんなりとしたはかなさです。
それ以来、足は遠のきました。
そして今まで、いいイメージを持てずにいました。
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2006年07月22日

梅雨の情緒

昨年は空梅雨で
ジョットリと湿り気を含んだ空気を、強い日差しがいたずらに焦がし
引き続き訪れた狂乱ともいえる夏の灼熱には、ほとほとまいったものです。
しかし今年は適度に湿りもあり、中休みもあり、
異常な台風の連続上陸もなく、
久しぶりに(ほぼ)健全な日本の梅雨の気候となっているようです。

遭遇するいろいろなブログの文字に目を走らせていると
「梅雨ってジメジメして一番イヤ!!!」なんて書き込みが多数を占めるようですが、
私・・・結構この時期はスキです。

晴耕雨読
本当にそういう生活ができれば理想なのですが、
雨の休日は「雨読」の姿勢を貫くことができ、むしろ心地よさも覚えます。
(晴れるとどうも、あちこちフラフラ出かけたくなっちまいますので・・・)

某日、朝から降り続いた雨が上がり、
曇天に支配された日中よりも、夕刻に到って空は明るくなってきました。
仄かに心浮き立つものがあり、
食材の買出しもかねて、ふらりと出かけました。

住宅街を縫うように進んで行くも、すれ違う人もおらず、
界隈はちょっとしたゴーストタウンのようです。
夕餉の匂いが窓から洩れ、漂い、生活の確かな兆しは感じられます。
しかし不思議な静謐がありました。

散策していると、いろいろ想起させられるものがあり、
思いがいろいろなところに飛翔して行きます。
その情景がニースの港であったり、バルセロナの裏道であったり
それは日常の生活では決して表われてこない、心の奥底に潜んでいた記憶なのですが、
それがどういう発火作用によりこうして蘇ってくるのかという
ある種の驚きも含んでいます。

国道一号線沿い、二ツ家(地名は二ツ谷)−大山へ到る街道筋に、宿が二軒あったことから名づけられたとのこと−
のあたりは旧街道の面影を残すようなケヤキの大木、豪農の屋敷などが残っています。
その細い道を縫うように進んでゆきます。。
周りの木々を見ながらふとおもいました。
「梅雨・・・人にとっては決して快適ではない気候でも植物にとっては恵みの時節なのだ。」

yuzu.jpg
庭のゆずの木が実を付けていました。


ume.jpg
その近くには梅園がありこちらも、実が鈴なりでした。


そして豊穣の極みは、紫陽花です。

いつもはなんとも貧相な葉と茎をさらし、
生きているんだか死んでいるんだかわからないような様相を呈していますが、
今の盛り、こんもりと広がるその花は菊の大輪にも匹敵するかのようです。
雨滴を受け、しっとりと染み入るような美しさを誇っています。

今日も雨は地表を濡らし、植物に滋養をもたらしています。
暗い空にもかかわらず、どの植物もしっとりとしたつややかな緑の葉を誇っています。

hana_june (1).jpg植え込みにあったガクアジサイが可憐に見えたので、
接写で記録しました。
そのとき私のすぐ足元を小さなカタツムリが這っていました。

今、ホンの数ミリ、私の靴を逃れ彼は生きながらえました。
しかし彼は先の繁華な道を横断し、別のアジサイの群生に到ろうと目論んでいるようです。
生活環境改善のためか、あるいはカタツムリという種の発展をもくろむ崇高な欠くべからざる行為からか、
しかしその先には通りを爆走する、幾重もの車の輪が待っています。
アスファルトから引き剥がし、植え込み後方の森に投げ込んでやりました。
posted by renn at 22:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

書くこと・歩むこと

また、長く休んでしまいました。
かくも長き不在に対して、何らかの「釈明のようなもの」が必要とされるでしょう。
それだけが出来ずにいました。
枕詞さえあれば、本文はすんなりと出てくると思っていました。

何かを書き終え、自分の思うことをうまく表現できた。
心を覆っていた茫洋としたものを言葉にあらわすことができた。
その瞬間はなんともいえず晴れやかなものです。

人間は言語を書くことはもとより、読むことでさえストレスを感じるといいます。
そんなつらい所業をしなくとも
口が達者で、何でも思うとおりに言えるなら
人は書くことなど必要なくなるのかもしれません。

自分や友人・配偶者・仕事、といった生活全般に何の不満もないならば
経済活動に精を出し、偉人の顔が印刷された紙切れを集め
自身を容れるちっぽけな囲いを、狭い地上に作ったほうがいい。
それが高度資本主義社会に生きる者の健全な生活です。

そういうことができないから、常に不満を抱え、
自身の欠落―それも決定的ともいえる欠け具合―
に気づいているからこそ書くことをやめられない。
それは他者に対し何かを訴えたいという欲求というより、
自身の欠落している部分を埋める為の行ないなのかもしれません。
「ぼんやりとした不安」は常に我が心に巣くい、
霧散する兆しはありません。

ここ一月ほど、「歩く」ということに偏執的なまでにこだわっています。
街へ海へ、里山へ谷戸へ。
歩いた距離はどの位になるでしょうか。
自分でもよくわかりませんが、歩みながら”精神世界のなにものかの成就を願う”お遍路さんのように、無意識の内に願をかけていたのかもしれません。

なるべく心を空虚に保ち、目にとまった葉の揺れ具合、立ちのぼる匂い、
そんな時に湧き上がってくる感情や巡ってくる記憶に素直に向き合い、
彷徨い漂うように歩を進める。

自転車に乗ったり、ジョギングをしたり、筋トレをしたり、運動するということは憂愁を霧散させるひとつの有効な手段です。
ランナーズハイ、スイマーズ・ハイなどと呼ばれるように
一定時間有酸素運動を続けていると、ある時ふと訪れる現実遊離の瞬間、
肉体的苦痛や精神的混迷から開放される瞬間が訪れます。
一種のカタルシス・精神浄化作用です。
歩くことはその最もピュアな形態です。
歩を進めることには何の技術もいらず、運動効率を考えたり、フォームを気にしたりする必要はありません。
より純粋に行為に没頭することができます。

想うことは日々、非常に多いものでした。
ここ近年にないほどの密度でもって日々想いつづけました。
そしてそれが蓄積し、心の中で飽和状態になり、
少し零れ落ち、文字になりました。
また・・・もう少し続けていきたいとおもいます。
posted by renn at 20:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする