庭園の入り口あたりを撮影していると、
ひときわ高さを持った木の枝では
鶯色の物体が花から花へと飛び回っていました。
先日コメントを寄せてくださったみーさんの言葉
「安静・療養」という語に妙な符合を感じました。
私も5年前のこの時期、
ベッドに臥せっていることを余儀なくされた身でありました。
今まで、この庭園に足を踏み入れることはあっても
なぜか遊歩道をたどり美術館まで上ってゆくことはありませんでした。
今日何故、八木重吉の碑を見ることになったのか。
そう思ったとき、頭の中で何かがカチリと音を立て、スイッチはつながりました。
鳥のこと、春のこと、病のこと。
輪は閉じ、捉えがたい”思い”は、言葉で語れるようになりました。
5年前。海辺の高台にある療養所に永く滞在していました。
食事時供されるものの中から、老人たちが食べ残す膨大な物のうち、フルーツやらパンやらを失敬して、窓際の植え込み下に配置するのが日課でした。
スズメやヒヨドリはすぐにやってきて饗宴を繰り広げていました。
南側に向いた病室の窓のすぐ脇には、東西に長く横たわるシャリンバイの植え込みがあり、
春も近づくころになると、その骨ばった枝をわたり、辺りを覗うように、なんともかわいいやつがやってくるようになりました。
初めは近くの梅の花の蜜を吸いにやってきていたのでしょうが、そのうちオレンジなどのフルーツ類を配した時には窓際にもやってくるようになりました。
「メジロ」という鳥は、こちらが本気で捕らえようとすればそれも不可能でないと思わせるくらい近くまでやってきて、人を恐れない大胆さ・無防備さがあります。
「目白押し」といわれるように互いにぴったりと寄り添い、狭い枝にとまっている様、
しばしば鶯と混同されるように、美しくかわいらしい声。
見ているだけで、ほんのりとした気持ちが湧き上がってきます。
それは初春の陽だまりにこそ似つかわしい光景に思えます。
安静を強いられ、摂取カロリーを制限され、うまいものを食うなど望むべきもない。
ベッドに寝転び本を読むか、あるいは談話室でテレビを見るか、
それくらいしかすることのない日々。
昨日と今日、今日と明日に何の違いもない、きわめて平板な日常。
それは労役を伴わない、懲役のようなものです。
そんな中、この小鳥の訪問は、心踊り、癒されるものでした。
私にとって「メジロ」という鳥は特別な存在です。
それは今でも
あの海辺の高台で過ごした日々の記憶に直結しています。
私の中で何故に特別に鳥たちに思いが移るのか
そのわけがわかりました。
今まで極力その記憶を消そうとしていた日々でしたが、
5年という節目のような年月を経て、ようやく著すことのできる状況になりました。


