一切の書き物から遠ざかり、3週間程経過し、
やっと書き出すことができました。
書けない理由を挙げれば、それはいくらでもあります。
一月ほど前は、毎日のように駄文を書き連ね、
恥をさらしてきました。
その頃といえば、
仕事を終え帰宅し、食事をしながら、酒を飲みながら
ほんの短い間にその日のページをやっつけ、アップロードする。
毎日、なるべく日を空けず更新したい。
そんないわれのない、ある種の強迫観念に支配されていました。
実際キーボードをたたく端から、あらわそうと意図した感情は霧散し、
核心の表層を滑っていく感覚に付きまとわれていました。
そんな折
たまたま訪れた図書館で
P.オースターの「鍵のかかった部屋」と再会し、
かつて慣れ親しんだその作品を読み返しました。
素晴らしい著作に触れ、自分のやっていることの矮小さ、
けち臭さにたまらなくなったこと、
それは書けなくなった原因のひとつです。
毎日戯言を書き連ね、それが何になるのだという思い。
いわば自身の中に「トカトントン」の音を聞いてしまいまいました。
加えて
かつては自分もこの小説の登場人物
「ファンショー」のような思いに捉われていたこともあったと思い至り、
愕然としました。
暗闇だけが、世界に向かって自分の心を打ち明けたいという気持ちをひとに抱かせる力を持つ。そして、あの頃起こったことを考える時、僕をいつも包み込むのは、まさに暗闇なのだ。
暗闇について書くことは勇気が要る。だがそれについて書くことこそ、暗闇から逃れうる唯一の可能性であることも僕は知っている。けれどたとえ書くことがきたとしても、僕が暗闇から逃げ切れるかどうかは疑わしい。たとえ真実を語りおおせたとしてもである。
すべての人生は不可解なのだ、と僕は何度も自分に言い聞かせた。いくら多くの事実が語られたところで、いくら多くの細部が伝えられたところで、一番大切な部分は語られることをかたくなに拒むのだ。
物語を聞くとき、われわれは幼かった頃の聞き方に戻る。言葉の内側にある真の物語を自分で描こうとするのだ。われわれは主人公の立場にわが身を置き、自分自身のことを理解できるのだから主人公のことだって理解できるはずだという思いを抱く。だがそれは欺瞞である。おそらくわれわれは自分自身のために存在しているのだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何一つ確信できはしない。
人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になってゆく。自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。人と人とを隔てる壁を乗り越え、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。
だが僕の頭はいつも、ひとつの空白を浮かび上がらせるだけだった。せいぜいでてくるとしても、あるごく貧しい情景にすぎなかった。―鍵のかかった部屋のドア、それだけだった。ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている。おそらく生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢をみている。いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを。
「芸術は、我々に真実の姿を見せてくれる一種の虚構である」(ピカソ)のですが、
自身を取り巻く現実は、
その虚構世界にとどまっていられない厳しさがあります。
書くことについて、自分なりの命題を見いだし、克服することは
当分先のことになるでしょう。
成し遂げたとしても、それを著すのは、この場ではありません。
それまでこの、ある種のむなしさから離れることはできず、
このページも更新されることはないでしょう。

