何の足場もないところから2階まで行き着き
かなりの厚さのある窓のガラスを切り取り、
そしてそれは、すべて日中に行われたのだ。
そこまでの事を行う執念。
これは並み大抵ものではあるまい。
あんなものに何か価値があるとは思えなかった。
はなからゴミのようなものだと思っていたので、詳しく中を見ることもしなかった。
私が見たものといえば、たどたどしい走り書きのような野口の手記と
彼の名刺、そして、健康増進センターのアンケートのような束だけだ。
なくなってみると果たしてあの中に特に重要な何かがあったのか。
詳しく、しらみつぶしに調べなかったことは悔やまれる思いもある、
単なる好奇心ではない。私が陥った罠の種を見極めたいのだ。
なくなってほっとした気持ちがあるのも事実だった。
諸悪の根源はあのカバンなのだ。
ほんの一時私の周囲に波風は立ったが、かつて存在しなかったと思えば
これからの私の生活も以前のような平穏が訪れるだろう。
平穏・・・
生きる事とは私にとってゆっくりと、しかし着実に死へ到る歩みでしかない。
何も起こらず、だが絶えず不満を抱えながらも朽ちていくのだ。
かつて陽のあたる場所にいたと思えたこともあった。
愛だとか恋だとか、かなりパズカシイ単語を口にした事もあった。
しかしある事件により、私も地に堕ちた。
映画の中のアラン・ドロンや、モンゴメリークリフトのように・・・
女は死んだが、私は生きながらえてしまった。
それは他人からみれば陳腐なソープドラマの一場面でしかなのだが、
そんなドラマのようなことが実際起こるとは、誰にとってもなかなか考えにくいものだ。
かつて存在したカバンは一時私の所有するところとなり
そしてまた何者かに奪い去られた。
だが単純に無くなってそれで終わりとは思えなかった。
物語の序は終わった、そしてここからが本番ではないのか、
そういう思いも芽生えてくる。
また悪い季節がやって来る予感がした。
人の感情には明らかに起伏がある。
私の心が鋼のように強くあれば恐れるものは何もない。
それがたとえいわれのない中傷であっても、圧倒的な力による支配であっても・・・。
ひとつの狭い完結した円環の中で生きていくのは、私にとってむしろ心地よいことであり、
そんなものどもは、はなから存在しない物として打ち捨てておくことはできる。
しかし今日はいけなかった。
多少なりとも身の危険を感じ、少々脆くなった気持ちを抱えていた。
泰然自若と構えることができなかった。
動いていなければ、襲ってくる不穏なものを打っちゃる事はできなかった。
そしてまたここに来てしまった。
もう一度おかみに会って今度は無理にでも愛想を良くして、少しでも事情を聞きたいと思った。
飲み食いした代金を払う必要もある。
だが、自分でもわかっている。
そんな理由付けはあとからとってつけたようなものだ。
私は女に会いにきたのだ。
おかみはいなかった。
代金を払いに来たんだが・・・
私の言葉にはすぐに答えず、女はカウンター奥へと私を促した。
「何しに来たか分かってるわ・・・でもあなたは知らないほうがいいわ・・・。
知ってしまったら、そこから逃れられなくなってしまう。」
自宅に侵入され、刑事に付きまとわれ、私はもう充分この事件に踏み込んでしまった。
幸い私には失って困るような現世への未練はなかった。気持ちは決まっているのだ。
「私も同じようなものよ。何も失うものはないんだわ。」
女はそこでしばし逡巡し、しばらくして言葉をつないだ。
「ホントならわたしもママがしたように、あなたをなんとしても追い出すべきなんでしょうけど・・・」
「・・・」
「私はてんびん座なのよ。いつもいろいろな事を秤にかけて生きているんだわ。」
不意に、そして久々に訪れたすっぱさにも似た感情を抑えることができなかった。
その時同情という感情は、愛情と云うものに非常に近いことに気がついた。
第一回:http://stylecouncil.seesaa.net/article/1750615.html
第二回:http://stylecouncil.seesaa.net/article/1849753.html
第三回:http://stylecouncil.seesaa.net/article/2143660.html

